同時代性と非同時性

同じ時代に生きること。

UTCPのBlog にいくつか記事を執筆。そこにも書いたが、思想史のOral Historyは早く手がけるべき仕事だろう。

橋川文三の世代経験を調べていて、彼の時代には数年の差が精神形成の巨大な違いになって表われたことを知る。たとえば、マルクス主義の著作がある世代以降はまったく読めなくなったのだから。数歳上の加藤周一の世代との断絶を橋川は語っていた。

ある外国の研究者と自分が同い年であることを知り、関心の共通性に同世代の近さを感じる。世代論に碌なものはなく、「彼は僕と同じ1964年生まれで」などと世代の共通性(に依拠したセクト主義)を語る人間に碌な人物はいなかった。ただ、ある特殊な経験の質をめぐってだけは、世代の差が決定的となることを否定できない。

『政治の美学』にはジーバーベルク論やテーヴェライト論を収めた。まだ生存している同時代の人物だが、書物で取り上げたのは彼らの映画や著作が1970年代の時代現象として重要だからで、それ以外の局面での活動にあまり関心はない。ボウイにしても同じこと。自分にとってはすでに彼らとの同時代性が喪われている、と言うか、彼らの過去の作品が現代においてもつ非同時性こそが重要だったのだ。

雑誌『UP』に掲載したエッセイか何かで『政治の美学』の内容を知ったジーバーベルク氏からは、批判的な論調を警戒するメールが届いた。それに対しては、これはイデオロギー的な批判を意図するものではなく、歴史的な研究であることを回答した。誰かが書物を英語やドイツ語に全訳してくれればありがたいが、論じる対象だからといって、いちいち細かなところまで説明する義務はないだろう。ともかく日本語で厳密に論じるべきことは論じたつもりであり、微妙な評価のニュアンスもわかるように書かれている。

先日のレクチャーでも語ったことなのだが、自分には何とかして(自己)了解に達したいという問題がいくつかあり、そのための方法論や素材は選ばないでやってきた。だからそもそも学術的な専門化とは無縁のところから出発しているのかもしれぬ。「独学」とはそういうものなのだろう。逆に言えば、解決すべき問題もないところでいったい何を研究し考えているのやら、まったくわからない「研究者」の多さには吃驚する。

「政治」って何ですか、「美学」って何ですか、「権力」って何ですか、「表象」って何ですか──そんなことに簡単に答えられるなら、書物など書きはしない。概念規定から始まる書物ではなく、ある解決(解脱?)に達するためにしか、自分は書いていないのかもしれない。

渡邊守章さんが表象文化論学会準備大会で語った「偉大なテクストを相手にせよ」という言葉が記憶に深く残っている。「偉大な」という形容詞をとりあえず使えば、ジーバーベルクの映画『ヒトラー』は偉大な作品であり、テーヴェライトの『男たちの妄想』は偉大なテクストだ。1970年代のボウイの作品も偉大なものだった。彼らにも解決すべき問いがあったのだ。カッチャーリ氏もまた、自分が決してオーソドックスではない精神形成をしたと語っていたことを思い出す。

偉大な作品やテクストとの格闘は孤独な作業ではないだろうか。少なくとも孤独であることをどこかで要請するのではないだろうか。小粒な言説が烏合したところで偉大な言説にはならない。同じ時代に偉大なテクストや作品の作者と出会えることは幸福だろう。しかし、そんなテクストを問いとして引き受けてしまったとき、そして、その作者が死んだり変質してしまったとき、テクストや作品との対話は孤独なものにならざるをえない。

共有される小さな問題をめぐってならばいくらでも議論もできようが、偉大なテクストや作品が与えるものは、ひたすら深く掘り下げるしかない巨大な問いなのだ。それは時々失語症にすら陥らせる。あらゆる議論が虚しく見える。

かつて、ある古典研究者が、自分の研究には同時代の研究者とのコミュニケーションを断つこと(そうやって古典テクストと一対一で向き合うこと)のほうが重要な場合がある、と語るのを耳にした経験は衝撃的だった。

そんなふうにして、何十年、何百年も先に読み直されるテクストを残すのだ、と考えるとき、そのときだけ、孤独からは救われる。