種の魅惑、縮減模型の魂

現代思想』のレヴィ=ストロース特集に寄稿しました。
書誌情報は
田中純「種の魅惑、縮減模型の魂──『野生の思考』再読」、『現代思想』第38巻1号(2010年1月号)、青土社、2010年、154〜165頁。

なお、文中で言及しているレヴィ=ストロースが作った神話の形態変化を表わす三次元模型については、該当すると思われる物体の写真が同じ号の59頁に掲載されています(今福龍太さんの論文の図2)。
この号に収められた文化人類学者の皆さんの論考からはいろいろ刺激を受け、レヴィ=ストロースの仕事を文化人類学はもとより、それとは異なるかたちでも継承する必要性を感じました。

滅びつつある、あるいは、滅びてしまった思考形態の論理を探るという営みは、それを担っていた人々への負債を返すのにも似たことかもしれない。人類学的なフィールドワークによるものではないけれど、ある時代の特殊な経験を甦らせようとする作業には、通じるものを感じる。この作業の次元を見ないサルトルの歴史哲学にレヴィ=ストロースが苛烈な批判を加えたことは、だから、ある種の歴史家でありたいと思う自分には十分理解できる。

野生の人々が読めないであろう言語でレヴィ=ストロースが書物を書いたことの意味について考えさせられる。「グローバルな知的ネットワーク」云々といった次元での儀礼的なコミュニケーションとはまったくの別次元で、「第4世界」がこの場に見いだされるべきではないのか。書かれるべきは「神話」である、ということでもあるだろう。

シンポジウム

事業仕分けの話とか、当日、いろいろ付け足しを考えていたのですが、時間切れでした。
戦うべきは反知性主義。だから、啓蒙も必要なので、短期的戦略としては「メディアの戦争」に参戦することも確かにありうる選択肢かもしれない。
けれど、そこで引き合いに出されるのが新哲学派だとすると、先日の蓮實+浅田対談ではないが、「死ぬために書く」という、それこそ殺し文句のほうがはるかに切実に思える。

「聞くこと」という臨床の知と「聞く耳持たぬ者にも聞かせる」という啓蒙の両者が必要なのだろう。
言葉の通じぬ者に向けて語ること、言葉もたぬ者の言葉を。
言葉なき者の語りを聞くこと。敗者に耳傾けること。
だから、同時代のためにのみ書くのではない。
死者とともに、あるいは、生まれざる者とともに書くこと。

独学に学ぶ

昨年行なったレクチャーの記録が雑誌に掲載されました。
書誌情報は
田中純「独学に学ぶ──早稲田大学建築史研究室白井晟一学習会・レクチャーシリーズ 第2回(2008年12月13日、虚白庵にて)」、『住宅建築』No.417(2010年1月号)、建築資料研究社、49〜54頁。

さる高名な哲学者のピンチヒッターでしたが、良い経験になりました。
白井晟一を語る」と称してはいるものの、立原道造堀口捨己アドルフ・ロースを経由し、白井に「にじり寄る」といったところで、詳しく「語った」とは言えないかもしれません。ただ、白井晟一をどのように語るかという、その語り口そのものは自分なりにとらえ返すことができたような気がします。
このレクチャーの機会を与えていただいた中谷礼仁さんに改めて感謝します。

書評:服部文祥『狩猟サバイバル』

書誌情報は
田中純「書評:服部文祥『狩猟サバイバル』」、「読売新聞」2009年12月13日付朝刊。


ちなみに、この本で追求されている「サバイバル」は、装備を完璧にしてエベレストに登るといった登山とは真逆にある。自分の手で殺生を行なわなければ生き延びられないからこそ、それは「苛酷」なのだ。

サバイバル(承前)

もっとも「敵」はいたるところにいる。

中央公論』の蓮實+浅田対談をつい読んでしまう。
既視感あふれるものだが、文字通り、対談自体が現代を19世紀の反復と見なしているのだから、20年前と大差ないものになることは当然なのだ。
現在のメディア状況に対する姿勢はお二人とまったく同意見で、「即時的なレスポンスのやりとりがコミュニケーションだという誤った神話に惑わされてはいけない」という浅田さんに対して、「それを嘲笑すべく、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけじゃないですか」と蓮實さんが応じているのはもっともというほかない。もういっぺん強調しておくと、ドゥルーズ「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけだ。
Twitterをただの雑談と見なせば別にどうということはない。雑談は楽しいし意味もある。しかし、もの書きがただでさえぐだぐだな思考をTwitterで垂れ流しても、それが自然にまとまるものでもないだろう。実際のところ、ぐだぐだの泥沼に沈んでゆくのが眼に見える・・・・・・。
Twitterであれ何であれ、所詮はメディア戦略じみたもの」と割り切った自意識の持ち主にしたところで、浅田さんの発言にあるように、「ディベートでこう言えば話題になるはずだという計算でずっとやってきた」フランスの新哲学派と同じく、そんなもので「勝ち組」になることに何の思想的意味があるのか。

とはいえ、この対談がどこか引退した賢者たちの高みからの発言に見えてしまうことも否定はできない。大学の制度改革などをめぐる蓮實さんの発言には、かつての東大総長・国大協会長としての過去に由来する、ある種の弁解じみたお気持ちがうかがえないわけではないように思う。「高齢者が金融資産を独占している状況を変えるには退職金制度をやめるしかない」という提案(それ自体はリアリストらしい現実的な政策だけれど)には、「あなたがそれを言いますか」と、苦笑を通り越し、みんなで爆笑してしまったが。
総じてお二人は、ごく常識的な意味で、「愚鈍」となるにはあまりに「聡明」なのだろう。「愚鈍さ」の称揚はある種の「嫉妬」から来るものに思える。ただ、「投瓶通信として書く」「レスポンスを求めないために書く」(浅田さん)、「発信しないために書く」(蓮實さん)、ついには「死ぬために書く」(ブランショ)といった言葉は、しごくまっとうな倫理としてかすかな支えにはなった。

サバイバル

読売新聞の読書委員(書評執筆)としてほぼ最後の仕事に取り上げるのは、服部文祥『狩猟サバイバル』(みすず書房)。内容は次の日曜に掲載される書評に譲るとして、たまにはここにも雑感を。

2年間にわたって書いてきた書評の最後に何を取り上げようかと思っていたところ、ちょうどこの本にめぐりあった。締めくくりにはふさわしい一冊。
この本の出発点がそもそも「肉食系」なので、ベジタリアン的な「草食系」の発想は端からない。そこがいっそすがすがしい。

生に執着している自覚はないが、ボウイや70年代ロックのテーマだった「サバイバル」は、身近な感覚ではあった。
何としても(ある象徴的な意味で)生き延びて、明日は戦うんだ、といった。
何のために?

「野戦攻城」の「独学者」(橋川文三)──生き延びてしまった者の倫理に惹かれるのも同じことなのだろう。
何が敵かは、敵だったのかは、倒れるまではわからないにしても。