「赤軍の娘は誰? そして息子は・・・・・・」(四方田犬彦)

『新潮』11月号の連載「四方田犬彦の月に吠える」を遅ればせながら読む。
四方田さんの『歳月の鉛』については以前短く書いた。その著書を入り口に、「70年代に権力によって徹底した弾圧を体験し、流亡と入獄、沈黙を強いられてきた者たち」として、中国の張承志の著作と頭脳警察をめぐる映画、そして重信房子PANTAについて綴られている。

冒頭に、『歳月の鉛』を書いたことは「この生きられた時代の匂いを直接に知らない後続世代の社会学官僚が、ブルドーザーのような文献整理を通してある時代の神話を脱神話化する行為とは、まったく異なった実存的選択である」と書かれている。この「脱神話化」が何を指しているかはおおよそ明らかだし、もちろん、それは異なる「実存的」選択だろうと納得はする。しかし、その脱神話化の必要性も明らかだ。

とくに張をめぐっては多くを教えられたし、PANTAの「マラッカ」をめぐる言及には眼を開かれた思いのする部分があった。しかし、こうした人々の生を「苛酷で真正な人生」と呼ぶ筆致には、それもまた神話化ないし審美化ではないのか、という思いを禁じえない。

四方田氏はバーダー・マインホフについても(映画が今年公開されたこともあり)機会を見て別の文脈で取り上げるというから、できればそれを待ちたいが、たとえば拙著『政治の美学』で参照したテーヴェライトの自伝的回想には、RAFの神話化そのものを徹底して対象化しようとする自覚があったように思う。『政治の美学』でやりたかったことは、政治権力や活動家たち自体というよりも、その周辺における神話化や審美化のメカニズムを分析することであり、その点で、この問題にはどうしても敏感になってしまう。

Bowieと同様、PANTAにも思想的恩義があると言ってもいい。けれど、彼の書く曲の随所に政治の審美化があることは否定できない事実だと思う。それを一刀両断に断罪する気は毛頭ないが、少なくとも無視はできない。そして、同じ審美化への傾斜をこの四方田さんの文章には感じてしまう。

だが、もしかしたらこれはパースペクティヴの違いであり、PANTAにも四方田さんにもその意識はまったくないのかもしれない。とすれば、審美化を見出すのは見る者の側の問題なのだろうか。いずれにせよ、わたしが『政治の美学』を書いたこともまた、みずからの内部にこの種の審美化を見出しているがゆえの「実存的選択」には違いなかった。

張氏の著作は四方田さんの紹介を読むだけでもきわめて刺激的で、是非日本語で読みたいと思った。そして、希望としては、早くからジーバーベルク氏に注目し、こうしてPANTAについて言及もしている四方田さんに、拙著の感想をうかがいたいと思っている。