書評:『ヤシガラ椀の外へ』

書誌情報は
田中純「書評:『ヤシガラ椀の外へ』」、「読売新聞」2009年9月6日付朝刊。


著者が中国に生まれたアイルランド人(ただし、いわゆる「生粋の」ではない)であり、アメリカでインドネシアを中心とした東南アジアを研究してきたという経歴が、本書に奥行きを与えている。
 「まっとうな」学者、という言葉が思い浮かぶ。

 『想像の共同体』がイギリスの知的状況を直接のコンテクストとした特殊でポレミカルな書物であり、文体にも意図的にアカデミズムからは外れる要素を盛り込んだという記述に出会い、かつての読後感を思い出して得心した。ベンヤミンの時間論をはじめとして、確かに政治学の書物としては異様な議論も含まれていたと思う。この書物がナショナリズム研究の古典と称されながら、他方では批判されがちなのも、そうしたところに由来するのかもしれない。

ただ、この文体の背後にあるのは、カルチュラル・スタディーズでありがちな理論の借用ではなく、上述したような奥行きに対応した、著者が経験してきた知的コンテクストの複数性であるように思われる。翻って、人文系の学問からは、その複数性が失われてゆきつつある。

知のグローバル化と声高に唱えても、そのグローバルな世界自体が「ヤシガラ椀」では、「旅」にはならないだろう。

今年は前田英樹氏の『独学の精神』や本書など、学問論に教えられることが多い。
これはそれこそ「独学」でしかないが、知の別のスタイル、別の文体は、おのれにとって必然的な出会いによってしか生まれない。
とするならば、徒に浮き足立つことなく、牙を研ぎ澄ましながら雌伏することも選択のうちだろう。
死者たちにこそ学びたいと思うのは、ある種の歴史家でありたいと願うからばかりではなく、反時代的であるための方法だ。「敵」ははっきりと見えている。

洞穴の中で時を待つ──狼のように。