毎日出版文化賞贈呈式

昨日(11月25日)、グランドプリンスホテル赤坂で第63回毎日出版文化賞の贈呈式がありました。

「毎日動画」の映像

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スピーチはメモを極力見ずに行なったため、記憶が飛んだ個所もありました。
原稿全文(スピーチとは完全には一致しません)をここに載せておきます。

 毎日出版文化賞という歴史のある賞をいただき、大変光栄に思います。今回の受賞作と同じ東大出版会から出た本で、最初にこの賞を受賞したのは1953年、丸山眞男さんの『日本政治思想史研究』です。そしてちょうど同じ年に、私がこの本で取り上げた建築家・堀口捨己さんも、ほかならぬ毎日新聞社から刊行した『桂離宮』で受賞していると知りました。こうした人々の名に自分が連なることの重みを感じております。
 東大出版会には企画委員会という制度があり、教員が委員を務めて、出版企画を一つ一つ会議で検討しています。私もたまたまその一員で、普段は専門外の書物、例えば理系の書籍のタイトルや構成にまで、いろいろ注文をつけています。当然ながら、私の本の企画もその会議に出され、久しぶりに論文審査を受けるような気持ちで緊張しました。何とか審査は無事に済んだのですが、そこで頂戴したご意見や「是非読みたい」という言葉が大変参考になり、また、励みにもなりました。大学出版会だからこそのこうした制度はとても貴重だと思います。企画委員の皆さんと編集部に深く感謝します。
 私の本は政治をめぐる想像力や美意識の分析です。とりわけファシズムやナチズムの政治的暴力が、その周辺の、あるいは後の時代の芸術家や学者たちによって美化される理由を探りました。先ほど[辻井喬さんの選評で]今日が憂国忌三島由紀夫事件の日であることを思い出させられ、迂闊にもすっかり忘れておりましたが、非常に感慨深いものがありました。
 私がこうしたテーマを取り上げたのは、その危険な美に魅力があるからこそです。ですから、この本はその魅力と危険をはっきりと示すものにしたかった。カバーの能面の写真や口絵のデヴィッド・ボウイの写真など、「これぞ」という象徴的なイメージを大胆に使うことが許されたのは、実に幸運でした。
 こうした美意識やファシズム的な暴力がまったく過去のものだとは思いません。それが繰り返されることをこの本では論じたつもりです。同時にこの美意識が自己解体したところに生まれる、星屑のようなきらめきも描きたかった。デヴィッド・ボウイパンク・ロックが文化革命だったわれわれの世代の、執念のようなものかもしれません。
 編集の担当は現在羽鳥書店社主の羽鳥和芳さんと矢吹有鼓さんでした。私が校正に最後まで執念深く手を入れ続け、図版や付録、索引にもひどくこだわったために、大変なご苦労を強いました。編集作業の最中には呪いの言葉がつぶやかれたという噂も聞こえてきます。この場をお借りして、もう一度、感謝の気持ちをお伝えします。
 人文学をとりまく状況はグローバル化のなかで大きく変化しています。事業仕分けの論理からすれば、ネット上の情報があればそれで十分ではないか、ということにもされかねません。しかし、研究の成果として日本語の書物を広く世に問うことの意義はいささかも薄れていないと思います。書物は同時代のためにだけ書かれるのではないからです。
 私の本に一冊の書物としての価値と出版文化への貢献を認めていただいたことを、重ねて感謝申し上げます。これを励みとして、時間の試練に耐えるような書物を残すべく、今後も努力いたします。
 どうもありがとうございました。

辻井さんをはじめとする審査員の方々にお会いできたことは幸いでした。特に1980年代の後半に北一輝へと導かれたきっかけである『北一輝伝説』の著者・松本健一さんにこの11月25日にお会いしたことを、紋章のように記憶に刻印したいと思います。

上の動画には収められていないのですが、圧巻はやはり山崎豊子さんのスピーチでした。その内容以上に、語る姿に会場は圧倒されていました。

祝賀パーティーでは拙著を刊行するうえでお世話になった方々、大学時代の恩師をはじめとする旧知の方々にお祝いしていただきました。喜びを分かち合えることを大変嬉しく思いました。同窓会も兼ねた二次会も暖かな雰囲気で和みました。

「赤軍の娘は誰? そして息子は・・・・・・」(四方田犬彦)

『新潮』11月号の連載「四方田犬彦の月に吠える」を遅ればせながら読む。
四方田さんの『歳月の鉛』については以前短く書いた。その著書を入り口に、「70年代に権力によって徹底した弾圧を体験し、流亡と入獄、沈黙を強いられてきた者たち」として、中国の張承志の著作と頭脳警察をめぐる映画、そして重信房子PANTAについて綴られている。

冒頭に、『歳月の鉛』を書いたことは「この生きられた時代の匂いを直接に知らない後続世代の社会学官僚が、ブルドーザーのような文献整理を通してある時代の神話を脱神話化する行為とは、まったく異なった実存的選択である」と書かれている。この「脱神話化」が何を指しているかはおおよそ明らかだし、もちろん、それは異なる「実存的」選択だろうと納得はする。しかし、その脱神話化の必要性も明らかだ。

とくに張をめぐっては多くを教えられたし、PANTAの「マラッカ」をめぐる言及には眼を開かれた思いのする部分があった。しかし、こうした人々の生を「苛酷で真正な人生」と呼ぶ筆致には、それもまた神話化ないし審美化ではないのか、という思いを禁じえない。

四方田氏はバーダー・マインホフについても(映画が今年公開されたこともあり)機会を見て別の文脈で取り上げるというから、できればそれを待ちたいが、たとえば拙著『政治の美学』で参照したテーヴェライトの自伝的回想には、RAFの神話化そのものを徹底して対象化しようとする自覚があったように思う。『政治の美学』でやりたかったことは、政治権力や活動家たち自体というよりも、その周辺における神話化や審美化のメカニズムを分析することであり、その点で、この問題にはどうしても敏感になってしまう。

Bowieと同様、PANTAにも思想的恩義があると言ってもいい。けれど、彼の書く曲の随所に政治の審美化があることは否定できない事実だと思う。それを一刀両断に断罪する気は毛頭ないが、少なくとも無視はできない。そして、同じ審美化への傾斜をこの四方田さんの文章には感じてしまう。

だが、もしかしたらこれはパースペクティヴの違いであり、PANTAにも四方田さんにもその意識はまったくないのかもしれない。とすれば、審美化を見出すのは見る者の側の問題なのだろうか。いずれにせよ、わたしが『政治の美学』を書いたこともまた、みずからの内部にこの種の審美化を見出しているがゆえの「実存的選択」には違いなかった。

張氏の著作は四方田さんの紹介を読むだけでもきわめて刺激的で、是非日本語で読みたいと思った。そして、希望としては、早くからジーバーベルク氏に注目し、こうしてPANTAについて言及もしている四方田さんに、拙著の感想をうかがいたいと思っている。

「毎日出版文化賞の人々」

インタビューが記事になっています。
◆人文・社会部門 田中純さん−−『政治の美学』(東京大学出版会)

印象的にまとめていただきました。
ただ、「ナチスを崇拝した建築家」の部分は、拙著にはない、やや強すぎる表現になっています。堀口は戦時中にヒトラーを評価する言辞を残してはいるものの、崇拝とは言えません。