帰国

チューリッヒに一泊して帰国。
バーゼル市文書館ではデジカメによる資料の写真撮影が認められており、手紙や日記などをひたすら撮る。GRDIIIの優れた接写機能が役に立った。
撮影枚数の合計は2321枚に上っていた。文書の写真だけでも1500枚は越えているはず。とりあえず整理したあと、どのように通読すべきか。

090911D40 097.jpg
文書館を守る犬と雨樋の蛙

090914GRD 241.jpgのサムネール画像

串刺しにされた蛙のいるクラヴェル家の紋章とジルベールデスマスク(?)をかたどったプレート

090915D40 558.jpg
ジルベール(手前)と弟ルネ
ルネは考古学を趣味にしていた。バーゼル郊外のアウグストには、彼が中心となって作られた古代ローマ遺跡の屋外展示や博物館もあり、今回訪れることができた。

ヴァールブルクについてもそうだが、われわれが手がかりにできるのは、散逸から救われた思考や感情の断片でしかない。いや、それだけでも解読するには膨大な数なのだが。
ヴァールブルクについて調べる際には、先行する伝記作家たちやアーカイヴ司書の仕事に支えられた。今回はそれがハラルト・ゼーマンの労力だった(彼はクラヴェルの著作の出版を計画していたはずである)。ある美術館でたまたま見つけたスイスの文化雑誌『du』の特集にゼーマンが取り上げられていたことも何かの因縁か。

自分自身の思考が拠り所にできる堅い実質は、やはり、こうした文書にしかない。
そして、その思考を深化するために必要な精気は、これらの文書を残した人々が生きた大地から立ち上ってくるように思う。
そうした「核」に触れ、その精気が漂うのを確かに感じた。

未来派周辺での活動ののち、1920年代ヨーロッパの知的狂騒から退いて、ポジターノの、いわば「巌窟城」に身を潜めたジルベール
ヴァールブルクにしろ、クラヴェルにしろ、一族の財産を蕩尽したディレッタントと言えなくもない。
しかし、彼らには大学という制度など無用で無縁な知の破壊力がある。

「死の舞踏」の都市・バーゼルでは、タンゲリー美術館や薬事博物館が記憶に残った。ドイツ領の隣町にあるヴィトラ美術館(フランク・ゲーリー設計)は期待はずれの印象。時間もなかったので、安藤忠雄設計の施設(外観は見られたが、安藤作品として特筆すべきものとは思えない)など、敷地内の建物見学は省略。バイエラー財団美術館(レンゾ・ピアノ設計)ではジャコメッティ展をやっていた。すぐ脇で牛が飼われているという農村の環境も良い。

090914D40 005.jpg
朝焼けのバーゼルライン川

090911D40 205.jpg
バーゼル市庁舎

R0011211_2.jpg
タンゲリー美術館にて

090915D40 826.jpg
薬事博物館にて

都合により土日を挟む日程になったため、各地に足を延ばす。
チューリッヒに移動した日にはクロイツリンゲンも訪れた。

090912+13D40 020.jpg
フライブルクミュンスターと花市場

090912+13D40 200.jpg
コルマールの百面館

090912D40 101_2.jpg

090912D40 131_3.jpg
ヴォーバン設計の要塞都市ヌフ・ブリザック、車窓より

DSC_3290.jpg
クロイツリンゲン、「蛇儀礼」の教会

DSC_3278.jpg
木造小型彫刻による受難の光景から

DSC_3478_2.jpg
クロイツリンゲンに隣接するボーデン湖畔の町コンスタンツ、自転するインペリア像