新年度

桜の花に思うことあれこれ。


ヴァールブルク論の末尾には、桜散る夢から目覚めたのちの胸騒ぎを詠んだ西行の歌を置いた。春のエンブレム。


中国での集中講義など、先月下旬があわただしく過ぎて新年度。
劃期的なこともありはしないが、転機は突然訪れるのだろう。
思いもかけぬ時に見る夢のように。


思想史を調べる関係上、書物を数多く所有し読むことは職業病であり、そうしたものでしかない。
他方、他人について言うならば、読んだ量よりも、それが血肉化した教養となっている様子に、むしろ心打たれることが多い。
よっほど貧乏ならば、それこそ万巻の書物を図書館で読むのもいいだろうが、所詮、ほんとうに血肉化できる書物などごくわずかだ。そんな書物を数冊ならば、それは自分の手元に置いておきたい。置いておくべきだろう。
ともに年月を重ねるために。


若い頃にブログのような便利な公開モノローグの手段があったら、さぞかし毒舌を重ねていただろうと恥じる。
語りすぎることはいつも恥ずかしいことだ。
ルサンチマンやコンプレックスが屈折した表現をとっているのを見るたびに、他人事であるにもかかわらず、恥ずかしくなる。


そして、ブログというのはどうやら、それ自体として閉ざされた島宇宙の内部で相互参照するための手段らしい。「はてな村」などというように。
相互参照しなければ、ただの孤島というわけだろう。


沈黙したいわけではない。
そうではないが、言語が囲繞されている閉域がうっすらと感じ取られてしまったとき、言語そのものとそれが展開される場を変えなければならないだろう。